発行者: 20.03.2020
島津氏 丸に十文字 ( まる に じゅうもんじ ). なお、島津家関連の物品を所蔵・研究・展示している 尚古集成館 では系図重視の観点から義弘を第17代当主と認定していたが、年に尚古集成館文化財課長で 鹿児島大学 法文学部 非常勤講師の松尾千歳も義弘は当主ではないとする論文を発表した [17] 。尚、現在も続く当の島津本宗家および当の尚古集成館自体は年の現在も義弘を17代当主としている [14] 。.
やがて島津氏一族の中から伊作家の 伊作忠良 と 薩州家 の 島津実久 が台頭して他家を凌駕した。. 島津貴久 島津氏第15代当主で島津四兄弟の父。島津氏の分家出身でありながら、島津氏宗家の家督を継承して薩摩国を統一。その後、これに反発した島津氏一門をまとめ上げ、名実ともに薩摩の守護として認められ、島津家の礎を築いた。. 戦国ヒストリーとは プライバシーポリシー 運営会社 ライター一覧 お問合せ. 重年 久光 忠済 忠承 忠広 現在.
斉彬 そして大友衰退後に九州北西部に強大な勢力を誇っていた 肥前 の 戦国大名 ・ 龍造寺隆信 との、 年 (天正12年) 沖田畷の戦い では、龍造寺氏も撃ち破り、九州最大の戦国大名へと昇華していく。龍造寺氏を破ったことで、大友から龍造寺に鞍替えしていた 肥後 の 豪族 達も島津方に転じ、残る肥後北中部の阿蘇氏と、その被官である 甲斐氏 の拠点も陥落させた(豪族としての矢部・阿蘇氏は滅亡し、その後、大宮司家として再興)。島津軍が瞬く間に快進撃を行えたのは、鉄砲の存在と、それを実戦で培い磨き上げた巧みな鉄砲戦術が大きかったと考えられる。.
忠久の長男である 島津忠時 は 承久の乱 では鎌倉幕府方の有力 武将 として相当の武功を挙げたとみられ、 薩摩国 ・ 大隅国 ・ 日向国 の他、 若狭国 守護職や 伊賀国 ・ 讃岐国 ・ 和泉国 ・ 越前国 ・ 近江国 など各地の地頭職も得るなど 鎌倉幕府でも巨大な御家人 となる。また乱の際に使用した太刀は「綱切」と号されて、 源氏の白旗 、忠久の 大鎧 と共に島津宗家 当主 が所用すべき重宝として相伝することとなった(『西藩野史』)。乱後、忠久は 越前国 守護職に補せられ、計五ヶ国を有するなど鎌倉幕府内でも筆頭守護人となる。 年 ( 安貞 元年)、忠久の死去に伴い 嫡子 忠時が島津氏2代当主の座を継ぎ、所職を相続したが、越前国守護職はほどなくして 後藤氏 に交替している。. 忠隆
続いて 御内 (みうち)と呼ばれる譜代被官・直属被官であり、初代 忠久 に従い九州へ下向した者、南北朝時代までに被官化された中小在地領主、若しくは御一家・国衆の庶家で、独立した所領を持たず被官となった者などがこれに類された [18] 。. 忠久の実父については諸説あり、頼朝の実子であり 惟宗広言 の養子であったとする説以外に、広言の実子であるという説があるが、 通字 の問題などから広言の実子説については近年疑問視する説もある。.
忠清 義弘の五男。母は園田実明の娘(側室)。分家の佐志島津家初代当主となったが、早世した。. 貴久 幕末 に至って、膨張する西洋帝国主義に対抗すべく、28代 島津斉彬 の時に洋式製鉄、造船、紡績を中心とした近代産業を興した( 集成館事業 )。 参預会議 の失敗で薩摩藩はそれまで推進してきた 公武合体 や 公議政体 などの幕府改革路線( 島津幕府 )を捨て、藩内より尊皇倒幕の志士を輩出、 徳川将軍家 と深い縁戚関係にありながら、外様で反徳川の 毛利家 と 薩長同盟 を結び、倒幕の中心となる。. com 無断転載禁止. 忠紀 忠救 忠貫 忠公 忠教 珍彦 壮之助 忠彦 晴久 孝久.
[20]. 3 2 [12] 753 27277 .
一番格上は 御一家 (ごいっか)と称される島津の有力庶家で、 薩州家 ・ 伊作家 ・ 相州家 などに加え、 北郷家 と 樺山家 などもこれに類された [18] 。また、6代 氏久 が子の 元久 に対し、「宗家と御一家の間に身分の上下は無く、特に 和泉 ・ 佐多 ・ 新納 ・北郷・樺山の各氏は 御教書 を与えられた家であり、上下はないと心得るよう」言い含めており、少なからず元久の代まではそのような関係が続いていたようである [18] 。.
島津忠久 島津貞久 島津氏久 島津元久 島津久豊 島津忠良 島津貴久 島津義久 島津義弘 島津歳久 島津家久 島津豊久 島津忠恒 島津継豊 島津重豪 島津斉興 島津斉彬 島津久光 島津忠重 島津久永 島津修久. 島津義久 島津四兄弟の長男で島津氏の第16代当主。義弘の同母兄にあたる。三州(薩摩国・大隅国・日向国)を統一するも、信長死後に台頭した秀吉に屈服した。.
17 [17] 17 [14]. 2 [21] 2 [21] [21]. 17 [ 9] 17. 3 4 6 6 !
島津家久 (いえひさ) 島津四兄弟の四男で義弘の異母弟。 沖田畷の戦い (年)で総大将として龍造寺氏を破り、九州征伐における 戸次川の戦い (年)で豊臣連合軍を迎え討って大勝するなど、大功をあげた。だが、島津家が豊臣政権に屈服した翌年に惜しくも急死した。. 氏久 元久 久豊 忠国 立久 忠昌 忠治 忠隆 勝久 貴久 義久 義弘 家久 光久 綱貴 吉貴 継豊 宗信 重年 重豪 斉宣 斉興 斉彬 忠義 忠重 忠秀 修久 現在. 忠昌 幕末 に至って、膨張する西洋帝国主義に対抗すべく、28代 島津斉彬 の時に洋式製鉄、造船、紡績を中心とした近代産業を興した( 集成館事業 )。 参預会議 の失敗で薩摩藩はそれまで推進してきた 公武合体 や 公議政体 などの幕府改革路線( 島津幕府 )を捨て、藩内より尊皇倒幕の志士を輩出、 徳川将軍家 と深い縁戚関係にありながら、外様で反徳川の 毛利家 と 薩長同盟 を結び、倒幕の中心となる。.
敬子 篤姫.
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表示 閲覧 編集 履歴表示. 応永18年(年) 、嗣子のない7代元久の死の間際、島津一門である伊集院頼久は家督継承を画策。これを元久の弟・久豊が自ら8代目当主となって阻止したが、宗家と伊集院氏が対立することになり、さらに伊集院氏に総州家が支援する形となって奥州家と総州家の争いが開始された。最終的に伊集院氏が降伏し、総州家も滅ぶことになった。. 義久
幕藩体制下にあっては、 宝暦治水 に代表される幕府の弱体化政策など圧迫を受ける一方で、 徳川綱吉 養女・ 竹姫 が 島津継豊 の後妻として嫁いで以降は、 寔子 (11代将軍・ 家斉 正室)、 敬子 (篤姫)(13代将軍・ 家定 正室)と将軍家と婚姻を通じ、縁戚関係をも深めることたびたびであった [注釈 4] 。島津家は武家でありながら、江戸時代年通し将軍家 御台所 を二人も出したことは異例である。また長命と子孫に恵まれた当主が多かったため、継嗣問題などへ介入されることがなく、幕府との関係は友好的かつ安定的に推移した。.
その後は忠昌の嫡男忠治が12代、二男忠隆が13代となったが、いずれも早世したため、 永正16年(年) には三男勝久が14代当主となった。しかし、政権基盤が弱く、各地の国人勢力を抑える力もなかったことから伊作家の伊作忠良と薩州家の 島津実久 が台頭するようになる。 勝久は初め、勢力挽回のために薩州家の実久を頼ったが、実久は専横に及んで家督譲渡まで迫った。そこで次に頼ったのが、のちに島津氏中興の祖と称えられた忠良(のちの 日新斎 )である。.
幕末 に至って、膨張する西洋帝国主義に対抗すべく、28代 島津斉彬 の時に洋式製鉄、造船、紡績を中心とした近代産業を興した( 集成館事業 )。 参預会議 の失敗で薩摩藩はそれまで推進してきた 公武合体 や 公議政体 などの幕府改革路線( 島津幕府 )を捨て、藩内より尊皇倒幕の志士を輩出、 徳川将軍家 と深い縁戚関係にありながら、外様で反徳川の 毛利家 と 薩長同盟 を結び、倒幕の中心となる。. 守護職が奥州家の元に統合された島津氏だったが、元久が嗣子無く没すると、島津一族の筆頭であった 伊集院頼久 が自身の子息を本家当主に据えようと画策する。これを察知した元久の弟・ 島津久豊 は元久の位牌を奪って8代当主となった。これにより伊集院氏との対立が深まり、また伊集院氏に総州家が助勢したため、またも領国内に内紛( 伊集院頼久の乱 )が起こったが、最終的に久豊は 伊集院氏 を降し、また総州家を滅ぼすことに成功。島津氏の守護領国制を完成させた。.