藤原 の 純友

発行者: 21.04.2020

間もなく、貞盛が下野国 押領使 の 藤原秀郷 と力をあわせて兵を集めているとの報告が入った。将門の手許には人足らずしか残っていなかったが、時を移しては不利になると考えて、2月1日に出陣する。貞盛と秀郷は 藤原玄茂 率いる将門軍の先鋒を撃破して下総国川口へ追撃して来た。合戦になるが、将門軍の勢いはふるわず、退却した。. しかし最近の研究では、純友が鎮圧の任に当たった海賊と、乱を起こした純友らの武装勢力の性格は異なることが指摘されている。純友が武力と説得によって鎮圧した海賊は、朝廷の機構改革で人員削減された瀬戸内海一帯の富豪層出身の 舎人 たちが、税収の既得権を主張して運京租税の奪取を図っていたものであった。それに対して純友らの武装勢力は、海賊鎮圧後も治安維持のために土着させられていた、武芸に巧みな中級官人層である。彼らは親の世代の早世などによって保持する位階の上昇の機会を逸して京の貴族社会から脱落し、武功の勲功認定によって失地回復を図っていた者達であった。つまり、東国などの初期世代の武士とほぼ同じ立場の者達だったのである。しかし彼らは、自らの勲功がより高位の受領クラスの下級貴族に横取りされたり、それどころか受領として地方に赴任する彼らの搾取の対象となったりしたことで、任国の受領支配に不満を募らせていったのである。.

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当時の 公卿 の日記にも同時期に起きた二つの乱について「謀を合わせ心を通じて」と記されており、当時、両者の共同謀議がかなり疑われていたようである。. 表示 閲覧 編集 履歴表示. 案内メニュー 個人用ツール ログインしていません トーク 投稿記録 アカウント作成 ログイン. 天慶2年(年)12月、純友は部下の 藤原文元 に 備前 介 藤原子高 と 播磨 介 島田惟幹 を 摂津国 須岐駅にて襲撃させた。ちょうど、東国で平将門が謀反を起こし新皇を称したとの報告が京にもたらされており、朝廷は驚愕し、将門と純友が東西で共謀して謀反を起こしたのではないかと恐れた。朝廷は天慶3年(年)1月16日 小野好古 を 山陽道 追捕使 、源経基を次官に任じるとともに、30日には純友の懐柔をはかり、従五位下を授け、とりあえずは兵力を東国に集中させた。純友はこれを受けたが、両端を持して海賊行為はやめなかった。.

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今日は何の日 天慶5年6月20日

当時の 公卿 の日記にも同時期に起きた二つの乱について「謀を合わせ心を通じて」と記されており、当時、両者の共同謀議がかなり疑われていたようである。. 従五位下 、 伊予掾. 最終更新 年3月17日 火 (日時は 個人設定 で未設定ならば UTC )。 テキストは クリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンス の下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は 利用規約 を参照してください。 プライバシー・ポリシー ウィキペディアについて 免責事項 開発者 統計 Cookieに関する声明 モバイルビュー. 関東で平将門が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして瀬戸内の海賊を率いて乱を起こし、藤原純友の勢力は 畿内 に進出、 天慶 2年( 年 )には純友は部下・ 藤原文元 に 摂津国 須岐駅において 備前国 ・ 播磨国 の 介 ( 備前介 ・藤原子高、 播磨介 ・島田惟幹)を襲撃させ、これを捕らえた。翌天慶3年( 年 )には、2月に 淡路国 ・8月には 讃岐国 の 国府 を、さらに10月にはついに 大宰府 を襲撃し略奪を行った。.

京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を訴える。将門の主人の 太政大臣 藤原忠平が事の実否を調べることにし、御教書を下して使者を東国へ送った。驚いた将門は上書を認め、同年5月、関東5カ国の国府の証明書をそえて送った。これにより朝廷は将門らへの疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられた。将門の関東での声望を知り、朝廷は将門を叙位任官して役立たせようと議している。. 興世王の進言 [注釈 2] に従い将門は軍を進め、同年12月、下野国、 上野国 の国府を占領、独自に 除目 を行い関東諸国の国司を任命した。さらに巫女の宣託があったとして将門は 新皇 を称するまでに至った。将門の勢いに恐れをなした諸国の受領を筆頭とする国司らは皆逃げ出し、武蔵国、 相模国 などの国々も従え、関東全域を手中に収めた。.

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当時の 公卿 の日記にも同時期に起きた二つの乱について「謀を合わせ心を通じて」と記されており、当時、両者の共同謀議がかなり疑われていたようである。. 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』.

最終更新 年3月17日 火 (日時は 個人設定 で未設定ならば UTC )。 テキストは クリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンス の下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は 利用規約 を参照してください。 プライバシー・ポリシー ウィキペディアについて 免責事項 開発者 統計 Cookieに関する声明 モバイルビュー.

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興世王の進言 [注釈 2] に従い将門は軍を進め、同年12月、下野国、 上野国 の国府を占領、独自に 除目 を行い関東諸国の国司を任命した。さらに巫女の宣託があったとして将門は 新皇 を称するまでに至った。将門の勢いに恐れをなした諸国の受領を筆頭とする国司らは皆逃げ出し、武蔵国、 相模国 などの国々も従え、関東全域を手中に収めた。. 従五位下 、 伊予掾. ツール リンク元 関連ページの更新状況 ファイルをアップロード 特別ページ この版への固定リンク ページ情報 ウィキデータ項目 このページを引用.

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  • 藤原 純友 (ふじわら の すみとも)は、 平安時代 中期の 貴族 ・ 海賊 。 藤原北家 、 右大弁 藤原遠経 の孫。 大宰少弐 ・藤原良範の三男 [2] 。弟に 藤原純乗 がいる。 官位 は 従五位下 [2] [注釈 1] ・ 伊予掾 [2] 。.
  • 同年8月、良兼はまたも軍を起こして、下総国と常陸国の境の子飼 小貝・蚕養 こかい の渡しに押し寄せた。良兼は高望王と将門の父の良将の像を陣頭におし立てて攻め寄せた。将門軍は士気喪失して退却、勝ちに乗じた良兼軍は豊田に侵入して火を放った。将門は兵を集めて良兼に復仇戦を挑むが大敗してしまう。良兼軍は再度豊田に侵入して略奪狼藉の限りをつくし、将門の妻子も捕らえられてしまった。9月、またも良兼は兵を繰り出したが、将門はこれを迎撃して打ち勝った。良兼は 筑波山 に逃げ込む。.
  • 対立が高じて合戦になり、同年11月、将門は兵人を率いて出陣した。維幾はの兵を動員して迎え撃ったが、将門に撃破され、 国府 に逃げ帰った。将門は国府を包囲し、維幾は降伏して国府の印璽を差し出した。将門軍は国府とその周辺で略奪と乱暴のかぎりをつくした。将門のこれまでの戦いは、あくまで一族との「私闘」であったが、この事件により不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまう。.
  • なお、天長3年 年 9月、上総・常陸・上野の三か国は親王が太守(正四位下相当の勅任の官)として治める親王任国となったが、この当時は既に太守は都にいて赴任せず、代理に介が長官として派遣されていた。当然ながら「坂東王国」であるなら朝廷の慣習を踏襲する必要は全く無く、常陸守や上総守を任命すべきであるが、何故か介を任命している。ここでの常陸、上総の介は慣習上の長官という意味か、新皇直轄という意味か、将門記の記載のとおり朝廷には二心がなかったという意味なのかは不明である。その一方で上野については介ではなく守を任命しており、統一されていない [注釈 3] 。.

11. [ ] [ ]. 317 UTC - Cookie .

天慶4年( 年 )2月、純友軍の幹部 藤原恒利 が朝廷軍に降り、朝廷軍は純友の本拠日振島を攻め、これを破った。純友軍は西に逃れ、大宰府を攻撃して占領する。純友の弟の 藤原純乗 は、 柳川 に侵攻するが、 大宰権帥 の 橘公頼 の軍に 蒲池 で敗れる。5月、小野好古率いる官軍が 九州 に到着。好古は陸路から、 大蔵春実 は海路から攻撃した。純友は大宰府を焼いて博多湾で大蔵春実率いる官軍を迎え撃った。激戦の末に純友軍は大敗、余艘が官軍に奪われた。純友は小舟に乗って伊予に逃れた。同年6月、純友は伊予に潜伏しているところを警固使 橘遠保 に捕らえられ、獄中で没した。. 藤原 純友 (ふじわら の すみとも)は、 平安時代 中期の 貴族 ・ 海賊 。 藤原北家 、 右大弁 藤原遠経 の孫。 大宰少弐 ・藤原良範の三男 [2] 。弟に 藤原純乗 がいる。 官位 は 従五位下 [2] [注釈 1] ・ 伊予掾 [2] 。.

京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を訴える。将門の主人の 太政大臣 藤原忠平が事の実否を調べることにし、御教書を下して使者を東国へ送った。驚いた将門は上書を認め、同年5月、関東5カ国の国府の証明書をそえて送った。これにより朝廷は将門らへの疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられた。将門の関東での声望を知り、朝廷は将門を叙位任官して役立たせようと議している。. 国香の長子の 平貞盛 は京に上って出仕して左馬允になっていたが、父の死を知り帰郷する。貞盛は復讐よりも京で官人としての昇進を望み、将門との和睦を望んでいたとされる。.


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